日本とオーストラリアの狭間で

昭和生まれ奇想天外な私のこれまでの歩み。社会脱落者としてこれからどうする?40歳目前独女の独り言。

回想: 生い立ち

子供時代から短大卒業まで。

 

昭和の時代全盛期、ある家庭で一人っ子として育つ。家は比較的貧しく、父親は大酒飲みで酒乱だった。毎晩酒を飲み酔っ払い、罵声を浴びせられ、暴力を受ける。母親は普通の人だったけど、私が小学校から中学校まで学校で陰湿ないじめに合っていた事もあってこの頃の生活環境が私のその後の人格形成に影響した。

 

その中で歌手の松任谷由実の大ファンになり、中学後半から短大にかけて私の生活の中心だった。もちろん周囲のファンは私よりずーっと歳上の人がほとんどで、そこで色んな意味で大人の世界を知った。同世代のファンの子とも知り合うもなんとなく合わずファンの中で孤立して行った。

 

両親は私が高校生の時に離婚、母に引き取られて父親とは絶縁状態になる。母娘だけの暮らしは非常に貧しかったけど、毎晩父親の暴力に怯えずに家にいられるだけでも救いだった。私は今でも両親の離婚を肯定している。

 

中学までは成績も中の下くらいだったのに、偏差値もそこそこの公立の商業高校に進学した為にそこでいきなりトップクラスの成績を取るようになった。初めは満足感もあったけど、学年が進むにつれて私はいつも一番で何でも出来て当たり前という周囲のプレッシャーに押しつぶされる。試験前は猛勉強をして何とか卒業までクラスのトップを維持させた。家の財政状況を考えて就職を希望するもその年は不景気でそれまでにない就職難。更に学校の先生から進学を強く勧められるも普通の大学に行ける資金なんてなく、中途半端な短大進学を選ぶ。ビジネス系のコースだったので確か卒業後の就職率は99%という触れ込みだった。

 

短大時代は勉強もあまりせず、バイトにせいを出した。高校三年終わりから米軍基地内のフードコートでバイトを始めていて、短大在学中もそのまま続けてた。気づけばいつのまにかシフトマネージャーになっていた。短大二年目で就活をするもどうしても気持ちが付いて行かず、説明会などもほとんど行かないまま、受けた会社(二社)も周囲の学生に比べてモチベーションが低すぎてもちろん不採用。その頃たまたまバイト先で準社員の話が出てそのままフードコートに就職した。フリーターに毛の生えたような仕事でも、母親は私のしたいようにさせてくれた。

 

短大卒業時に改めて短大に行ったのはお金の無駄だったと思った。あれだけ苦労して資金をかき集めたのに私は結局フリーターになったのだから。